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コンテンツ目録

箱庭物語  箱庭物語2  虹色冒険譚


最新作(?)
箱庭物語 海の祈り(箱庭物語2)


※基本的には『箱庭物語2』です。
R-15 に表現を落としました。
※文章ミスや細かいバグを出来るだけ修正しました。

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曲の解説「歪で美しくもある人間」

自作曲を、なんとなく、作った当時を思い出しながら、メモランダムしたい。
というわけで、課題曲は、箱庭物語2 海の祈り
ラストバトル曲「歪で美しくもある人間」



■タイトルについて
タイトルは結構真剣に考えます。大抵、作品が完成してから、全体の構成やメッセージ性を考えた上で、その作品の金看板として掲げられる言葉を探し、タイトルをつけます。これは音楽も小説もかわりません。
で、この曲、「歪で美しくもある人間」というタイトルの由来ですが、エトスがラストバトル前に主人公達に吐くセリフです。エトスは自分に与えられた、「人間を昇華させる」という役割を演じるために、不要な人間を粛清しようとするのですが、人間たちの持っている生来の「歪」や矛盾を、ある程度理解しています。エトスは最終的にそれらを「不要なもの」として結論づけているが、歪な状態で残っている「排除されるエリアの人間」に一定の敬意を払っている。そんなエトス自身の矛盾も、この音楽のタイトルに込めました。
この音楽の主人公は、管理者側と人間側、どちらからでも取れるように。でも最終的に勝つのは管理者。

■イントロについて
0:00~0:32
不気味で静かなピアノのリフと、管理者戦BGM「象の足」と類似したベースラインから始まる。鼓動のような四つ打ちバスドラムが徐々に鳴り響き、関を切った様に「象の足」が流れ始める。この時点で、音楽の主導権は管理者側にある。

■メロA1
0:32~0:57
象の足のメロディを中断するかのように、フィールドBGM「海」のメロディが流れ始めます。高音を奏でるストリングス。比較的静かだったマップBGMバージョンとくらべると、うるさいほどドラムが鳴り響いている。冒険を進めてきたプレイヤーにとって、「海」のBGMは「人間たちの冒険のテーマ(って受け取ってもらえるといいなぁ)」なので、ここでは音楽的に人間サイドが優位に立っている。しかし、ベース部分では、象の足と類似した音の刻み方をしたシンセベース音が鳴っている。管理者の脅威からは逃れられていない。

■メロB
0:57~2:01
不気味なピアノのカデンツァのあと、完全に「象の足」が再現されたメロディが流れます。イメージ的には、頑張る人間たちを飲み込むかのように管理者の脅威が、まるで津波のように押し寄せる・・・じょじょに盛り上がっていく管理者BGMは、巨大な圧力の壁となって、プレイヤー達に襲いかかる(ように聞こえてたらいいなぁ)。

■メロA2
2:01~2:52
巨大な管理者の津波を乗り越え、再び「海」BGMが復活。メロA1より、微妙にキーが高くなっている。このメロディでの最高音のストリングスが悲鳴のように聴こえる。メロA1よりも盛り上がる2回めの「人間の海」。そしてサビへ・・・

■サビ1
2:52~4:08
ドラムが落ち着き、ピアノのカデンツァをバックに、ストリングスで主旋律を奏でる。主旋律は揺れるように上下する。自然発生する海の波のように。三連譜でアルペジオしているピアノは、繊細な水面をイメージ。
このメロディは、海で体を揺られるような、上下に緩やかに、波に合わせて揺れ動くイメージをかさねた! つもり!

ドラムが激しくなり、海は荒れる。微妙に聞き取りづらいが、タップダンスの音が聴こえる。人間たちが刻む踊りのリズムが流れる。しかし、ベース音はシンセベース。主旋律を奏でるストリングスは、今にも張り裂けんばかりの悲鳴のような高音ストリングス。

■アウトロ
4:08~
そして、音楽はふたたび管理者の「象の足」へ戻る。
やっぱり管理者には勝てなかったよ。


【随想】
音楽的には微妙で、けっして単体で聞いてもいい曲ではないが、「箱庭物語2」という物語のラストを飾るにふさわしいイメージ曲だと思います。うるさかったり、甲高かったりする音も、あのラスボス戦には必要だったのだと思う。

共同幻想

三省堂『20世紀思想辞典』 より

共同幻想
人間は本能が壊れ、現実との接触を失い、幻想の中に迷い込んだ動物である。しかし、各人がそれぞれに、ばらばらな私的幻想の中に閉じこもっていたのでは、個人と個人のつながりはなく、人類は滅亡してしまうので、人間はそれぞれの私的幻想に共通の部分を見出し、その部分を共同化して共同幻想を形成し、その共同幻想を擬似現実とし、その中に住むことによって存続を図っている。自我、国家、道徳、法律、経済、科学、芸術、宗教、そのほか人類の文化と呼べるものすべての現象は共同幻想である。・・・個人は不可避的に共同幻想と私的幻想との間に引き裂かれており、共同幻想そのものはつねに不安定である。

 私的幻想の中に存在している「犯されたくない領域」を守るために、共同幻想を作り上げ、国家や規範、秩序をつくるのではないかと感じた。結局、自分を守るためには、他人も守らなければならないし、自分の領域を保持するためには、他人の領域をおかしてはならない。そうした中で、私的領域と共同領域の折り合いをつけるために、人々は議論をして、共同幻想を構築するのかな。

 しかしこの言葉、なかなかエゲツナイ。現実世界の構造を「幻想」という言葉で表現し、現実の事象は実態のない幻想という見方をしているのが面白い。たしかに、国家とか道徳とかは、形が存在するものではないが・・・ ただ、そうした「共同幻想」こそが戦争や平和の正体であると考えると、物質よりも幻想のほうが、やはり描くに値するのかな。兵器や、人間の拳だって、結局は単なる物質でしかない。行使して、他者の領域を侵すのは、いつも幻想だしね。
共同幻想と共同幻想の戦い・・・

創作と現実の距離感

 小説や映画、創作物は全てが現実の人間が作り上げたもの。宗教、神話だってそうだ。結局、人間の視点から作り上げられたものだ。サイエンス・フィクションやファンタジーものですら、結局は人間の主観を加工して作られた産物に過ぎない。結局、人間が感じて理解できる範囲内での表現でとどまっている。「人間」という言葉のには、多種多様な民族的・社会的文化、更に言えば「個性」まで絡んでくるので、一概に定義付けられるものではない。
 しかし、人間には共通観念がある。死は怖い、異性を慈しむ、痛いのは嫌だ、食べるのが好きだ、飢えるのは苦しい、未知のものに好奇を抱く、未知のものに畏怖を感じる・・・などなど。それそれの共通観念に対するアプローチの仕方は人それぞれだが、結局、創作というものは、そういう人間が共有している共通観念を活かして、現実の世界から感じ取れる何かを、作品という形で具現化しているに過ぎない。
 作品に描かれた人物や要素は、結局作者である「個人・人間」が感じ、解釈したものの慣れ果である。完全なおもちゃみたいなエンターテイメント作品であろうとも、作品そのものは、人間が愉しいと感じる要素を「共通観念」から取捨選択し、加工している。と、思う。

 上記全ては、創作を批判する意味で書いたのではない。個人的には、上記のように「共通観念」を深く咀嚼したうえで作られる作品こそ、作るに値する・読むに値する作品だと考えている。
 結局、作品は作者のものだが、公開すれば、それは受け手のものとなる。受けての主観によって、作品は解釈される。作者というのは、仮に作品の中に存在していたとしても、畢竟、「作品の解釈の材料」程度にしかならない。創作の中で、共感や感動を産むシーンは、究極のところでは、人間の本能に根ざしていつつ、「表現する」という理性的な行動で描かなければならない。

たぶんね。少なくとも自分は、そうやって創作をしていきたい。

キャラシートテスト ロイテ・ボック

キャラクターシートなるものを作ってみたので、
ボックを当てはめてみた。
いままで細かく設定を練ってこなかったので、思いつきな点もあるけど、
こうして文章に残してしまえば、あるていど固着擦ると思います。

こういう設定をしっかりと練って、創作にしたい。
たぶん、そうしたほうが、作品も綺麗に纏められそうだし・・・

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つぶやきちゃん

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